堀潤之/映画研究者

はなればなれに | 1964
ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ドリーマーズ』(2003)には、『はなればなれに』(1964)の主人公たちがルーヴル美術館を駆け抜けるシーンを寸分違わず再現したシーンがある。ケチな強盗計画を決行する夜が訪れるまでの暇つぶしとして、三面記事でたまたま目にした9分45秒の記録を更新しようとするオディール(アンナ・カリーナ)たちの他愛のない振る舞いを、シネマテークのラングロワ解任事件を背景にした五月革命前夜の物語の中で、イザベル(エヴァ・グリーン)たちが反復し、記録をさらに縮めようとする。ギルバート・アデアの原作においては、シネマテークが閉鎖されるなら「自分たちで映画を街中へ持ち込む」までだという、「抵抗の意思表示」(『ドリーマーズ』池田栄一訳、白水社、2004年、34頁)として遂行されたこの行為は、ベルトルッチの映画では『はなればなれに』に対するあられもないオマージュへと変貌しているように思われる。イザベルたち3人が踏破するルートも、壁に掛けられているダヴィッドの絵も、彼らを制止する警備員の身振りも、約40年前に撮られた映画のショットをまるごとトレースしたかのようで、しかもそのことを誇示するかのごとく、元のシーンの白黒映像も何度か差し挟まれるからだ。

だが、『はなればなれに』のこのシーンは、ベルトルッチがそう思わせるほど、単に幸福感に充ちたものだっただろうか。このシーンはたしかに、ヴァンセンヌ門付近のカフェで計画を練っているときにふとした成り行きで3人がマディソン風のダンスを踊り始める瑞々しいシーンや、同じカフェで1分間の沈黙ゲームが始まると背景音まで消えてしまうという遊び心のあるシーンと並んで、見る者に鮮烈な印象を残す。強盗計画の遂行とはほとんど関係のない無目的な行為に没頭する登場人物たちを見ていると、私たちは、彼らの無償の生の断片が人生のとてつもなく貴重な一コマであるかのような感慨に襲われるのだ。しかし、これらのシーンが尋常ならざる生の耀きを放っているのは、そこに同じくらい深い悲しみがぴったりと貼り付いているからではあるまいか。
ここで、カフェのシーンに後続するこれまた忘れがたいシーンを思い起こそう。アルチュール(クロード・ブラッスール)と一緒にメトロに乗っているオディールは、憂いを浮かべた表情で、突如、アラゴンの詩に基づくジャン・フェラの唄《聞こえる、聞こえる》を口ずさみ始める。よりよい社会を目指す闘争から去っていった「打ちひしがれた見かけ」の同胞へのシンパシーに満ちた歌詞に合わせて、ホームレスを含む見知らぬ人々のカットが何枚か差し挟まれ、オディールがカメラをまっすぐに見つめる。列車は、詩の内容とも呼応する「リベルテ(自由)」という名前のメトロの駅を通過し、オディールは「不幸と不幸は似通う。それは深い、深い、深い」と呟く・・・。アラゴンの詩では社会主義の約束をするような「空の青さ」と対比されているこうした現実世界の「不幸の深さ」が、『はなればなれに』においてはあたかも実存的な意味に昇華されて、登場人物たちのありとあらゆる行為に付きまとっているかのようだ。

『はなればなれに』がこうした無邪気な楽しみと荘重なまでの悲しみの同居に成功しているとしたら、それは3人の主要登場人物の性格付けにも多くを負っているはずだ。ゴダール自身がプレスブックに詳しく書き綴った人物紹介の言葉を借りれば、オディールは「19世紀イギリスのロマン主義」と「その前世紀のドイツの古典主義」の両方に由来する人物、時には(たぶんロマン主義的な)『夜の人々』(1948)のキャシー・オドネル、時には(古典主義的な)『暗黒街の弾痕』(1937)のシルヴィア・シドニーを思わせる人物であるという。つまり、オディール自身が、一見したところでは相容れない特質を兼ね備えた人物とされているのだ。そして、彼女がその間を揺れ動く2人の男は、アルチュールが「見せかけとうわべ」を信じる「大衆小説の登場人物」たる単純明快でどちらかと言えば古典的な人物として、フランツ(サミ・フレー)が「悲劇、悲嘆、不幸」に進んで身を置く、より複雑でロマン主義な人物として造形されている(なお、この人物紹介は、Jean-Luc Douin, Jean-Luc Godard, Rivages, 1989, p.149-152に再録されている)。
こうしてロマン主義と古典主義の間を行き来する登場人物たちが織り成す物語は、おのずと、現実的なものと突飛なものが交錯するものとなるだろう。サミュエル・フラーの低予算犯罪映画の素材になりうるようなドロレス・ヒッチェンズの犯罪小説『愚か者の黄金』(1958)を原作とする物語世界に、レーモン・クノーの自伝的小説『オディール』(1937)や、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』(1928)に基づく台詞が不意に挟まれ、それがまた絶妙な調和を保っているのだ(もっとも、シュルレアリストたちはアメリカの犯罪小説を好んでいたので、それも不思議ではないかもしれない)。かつてゴダールは長編第一作の『勝手にしやがれ』(1960)について、自分なりの『暗黒街の顔役』を撮ろうとしたら期せずして『不思議の国のアリス』が出来上がったと述べているが(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年、497頁)、『はなればなれに』では意図的に、計算尽くで、そのような異種混淆性を追求したのではないかと思われる。

『気狂いピエロ』(1965)──同じくアメリカの犯罪小説に基づくこの映画は、『はなればなれに』の末尾で「シネマスコープ、テクニカラー」で撮られると予告された続篇なのかもしれない──で、フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)がジャック・プレヴェールの詩の一節を読み上げるシーンがある。「優しくて残酷、現実的で超現実的、恐ろしくて滑稽、夜のようで昼のよう、普通でありながら突飛」。マリアンヌ(カリーナ)がフェルディナンのことを書いた詩という設定のこの対句は、『気狂いピエロ』よりもむしろ、『はなればなれに』を形容しているかのようだ。矛盾するはずの要素が矛盾なく同居する奇蹟のような一篇は、その慎ましげな佇まいのもと、これからも多くの者を惹きつけ続けていくにちがいない。
(2020年7月31日発売ブルーレイ封入リーフレットより転載)
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