ゴダール 1968–1972

堀潤之/映画研究者

ウイークエンド | 1967
たのしい知識 | 1968
ありきたりの映画 | 1968
東風 | 1969
ウラジミールとローザ | 1970
万事快調 | 1972
(収録:「JLG+ジガ・ヴェルトフ集団 BOX」)

 1967年末に公開された『ウイークエンド』で「映画の終焉」を宣告してから1972年の『万事快調』で商業映画に復帰するまでのおよそ4年半で、ゴダールと彼の仲間たちは完成した長編作品だけでもじつに10本もの映画を撮った。いずれも、既存の映画のあり方を根本的に問い直すようなラディカルで実験的な作品である。しかも、『ウイークエンド』と『万事快調』、および『ワン・プラス・ワン』(68)を除いた残りの7本の映画は通常の商業的なルートでは公開されなかったため、同時代的にも、またその後のかなり長い期間にわたっても、それらの実践はいわば不可視の状態にとどまっていた。ゴダールのキャリア全体に照らしてもきわめて密度の濃い創作活動が展開され、またゴダール自身にも深い変容をもたらしたこの時期の全貌が万人に明らかになったのは、比較的最近のことである。

 世界的に学生運動が高まりを見せ、とりわけパリを震源地とする五月革命によって20世紀後半の大きな転換点となった1968年は、37歳のゴダール個人にとっても激動の年となった。映画人たちにとって、この年最初の大事件は、2月9日にシネマテーク・フランセーズの創設者にして館長のアンリ・ラングロワが解任されたことだった。キューバに赴いていたゴダールは直ちに帰国、フランソワ・トリュフォーらとともにラングロワ解任に反対する抗議運動を組織する。成功裏に終わったこの運動をいわば映画人にとっての前哨戦として、今度は五月革命が起こる。その最中、ゴダールはカンヌに突入して再びトリュフォーらとともに映画祭を粉砕し、パリの街頭ではデモや集会に参加しながら、いくつものシネトラクト(白黒の16ミリで五月革命のさまざまな場景をとらえた3分程度の無声のフッテージ)を撮影する。五月革命以後も、ゴダールは1月にすでに撮影していた『たのしい知識』の編集を済ませるとともに、夏のロンドンでザ・ローリング・ストーンズとともに『ワン・プラス・ワン』を、パリ近郊で闘士たちと『ありきたりの映画』を撮り、秋から冬にかけてキューバ、アメリカ、そして厳寒のケベックを回って結局は未完に終わった企画の実現に向けて奔走する。

 翌69年以降のゴダールも実に精力的だ。20歳の若き毛沢東主義者(マオイスト)ジャン=アンリ・ロジェを主な協力者として、イギリスで『ブリティッシュ・サウンズ』を、チェコスロヴァキアで『プラウダ』を撮った後、今度はイタリアでダニエル・コーン=ベンディットのアナキスト一派とともに『東風』を撮る。この作品の撮影、そしてなかんずく編集作業に大いに貢献したのが、もう一人の若き毛沢東主義者(マオイスト)ジャン=ピエール・ゴランだった。その後は彼を主な協力者として、『イタリアにおける闘争』(70)、『ウラジミールとローザ』(71)、『万事快調』(72)を完成させる。また、この時期に未完に終わった企画のうち、PLO(パレスチナ解放機構)の委嘱で1970年前半をまるまる費やして、ヨルダンやレバノンで『勝利まで』のフッテージを撮った体験は、現在に至るまでゴダールの思考に痕跡を残し続けていると言えるだろう。

 ジガ・ヴェルトフ集団が誕生したのは、1969年の秋、『東風』の編集中のことだったと言われている。といっても、この時期の作品にはクレジット画面がない上に、設立にあたって明確なマニフェストがあったわけでもないので、69年から70年にかけて、ゴダール=ゴランを軸として、グループがゆるやかに形成されていったとみるべきだろう。したがって、純然たるジガ・ヴェルトフ集団作品は、『東風』『イタリアにおける闘争』『ウラジミールとローザ』の3作だけということになるが、ジャン=アンリ・ロジェと組んで撮られた『ブリティッシュ・サウンズ』と『プラウダ』は遡及的にジガ・ヴェルトフ集団名義の作品とされた。他方、『万事快調』は通常ジガ・ヴェルトフ集団作品とはみなされないが、ゴダール=ゴランをはじめ、撮影のアルマン・マルコ、助監督のイザベル・ポンスなど、スタッフの人脈的には完全に連続している。

 とりわけ『カメラを持った男』(29)で知られるソ連の記録映画作家の名を借りたこの製作集団の結成は、ゴダールが著名な映画作家としての(ブルジョワ的な)名声を捨て、匿名的な集団製作に身を投じようとした決意のほどをよく示している。その極限的なかたちは、『東風』の1シーンにみられるような、スタッフ・キャストの全体集会に基づく「民主的」な映画作りであろう──とはいえ、それが行き着く先は混沌でしかない。そもそも、ジガ・ヴェルトフ集団の映画製作は、ゴダールの圧倒的な名声があるからこそ注目を浴びるというパラドクスに当初から付きまとわれていた。その意味では、本質的に孤独でありながら、絶えず真の意味での対話──以前はヌーヴェルヴァーグの仲間たちとの、以後はとりわけアンヌ=マリー・ミエヴィルとの──を求めずにはいられないという、ゴダールのキャリア全体を貫く性向をここに見て取るべきかもしれない。

 ジガ・ヴェルトフ集団は「政治的に政治映画を撮る」ことを信条としていた。すなわち、単に政治的な内容を伴った映画を撮るのだけでなく、映画的表象のあり方そのものを根本的に問い直すことを目指していた。その具体的な諸相は、『ブリティッシュ・サウンズ』や『プラウダ』のようにエセックスやプラハの実際の政治的状況に沿ったものから、『東風』のようにより寓意的なものまで、あるいはアルチュセールの理論に基づいて組み立てられた『イタリアにおける闘争』の生真面目さから、シカゴ裁判を馬鹿馬鹿しいほどの笑劇に仕立てた『ウラジミールとローザ』の滑稽さまで、実に多種多様である。実際、いま振り返ってみてもこの時期の作品が面白いのは、その政治的内容によるというよりは、映画の形式的な実験の多様さと奔放さのおかげであることは間違いないだろう。

 だが、私にとってより興味深いのは、狂騒的である種やぶれかぶれなジガ・ヴェルトフ集団期の作品よりも、各々異なった理由で、それに先立つ2つの作品、ゴダールが単独で試行錯誤をしていた『たのしい知識』と『ありきたりの映画』である。『中国女』(67)の勉強会のシーンの続きとも言える『たのしい知識』では、写真、雑誌の切り抜き、図表などの夥しい量の映像が矢継ぎ早に提示され、注釈され、分析される──その手つきは、はるか『映画史』(1988–98)を予告している。この作品を見ると、ゴダールが最も冴え渡っているのは、現実の政治的状況ではなく、やはりイメージを相手にしているときではないかと思えてくる。他方、『ありきたりの映画』は、そのタイトルにもかかわらず、ゴダールのフィルモグラフィーにあって例外的な作品である。とりわけ、五月革命を総括する学生と労働者たちの議論が、顔を排除した周到なフレーミングによってひたすらとらえられる部分は、現実の出来事の分かりやすい再構成やスペクタクル化にいっさい頼らないことによって、堅固な物質性を獲得している。まさに五月革命直後の「現実」そのものが、そのまま切り取られて提示されているという印象を受けるのである。それが高度な映画的手法のなせる技であることは言うまでもない。ストローブ=ユイレがこの作品を「ゴダール最良の作品の一つ」とし、「68年5月に真に釣り合った」作品と言っていることの意味を改めて考えてみなければなるまい。

(2012年5月31日発売 「ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団BOX」封入ブックレットより転載)
 ©1967 Gaumont – Ascot Cineraid
 ©1968 Gaumont – Productions de la Guéville
 ©1969 Gaumont – Polifilm – C.C.C. Filmkunst
 ©1969 Gaumont – Bavaria Atelier Gesellschaft
 ©1971 Gaumont
 ©1972 Gaumont

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