遠山純生(映画評論家)

ヴィゴの初監督作にあたる短編。彼は結核の治療のために滞在していた療養所で、ウッチ(ポーランド)の工場主の娘エリザベート・ロジンスカ(「リドゥ」の愛称で呼ばれる彼女も同じ病に冒されていた)と知り合い、彼女と共に1928年12月初旬にニースへ移住し、翌年1月下旬に同地で結婚した。ヴィゴはニースにある規模の小さな映画会社でカメラマン助手を務めることで映画界との関わりを持ち始め、やがて自分で映画を撮ってみたいと思うようになる。そして、義父が自分たち夫婦に送ってくれた10万フランの一部を使って中古のゼンマイ式小型映画撮影用カメラ「ドゥブリ」を購入した。動物園で撮影の練習をした後、ヴィゴは自身が両義的な思いを抱いているニースという土地──彼はリドゥとの幸福な結婚生活を送るニースを愛しつつ、富裕層の社交場という点ではこの地を憎んでもいた──を主題とした記録映画を作ろうと思い立つ。そしておよそ30冊におよぶ文献を調査し、何冊ものノートを作りながら、ニースとその周辺の歴史を学び、遺跡巡りをした。しかし歴史を直接描く計画はその後放棄され、代わって歴史というものがあたかも「人間を欠いた自然のありよう」と「現代的都市生活」の合間にあるかのように描くべく映画を構成するアイディアが浮上する。しかし1929年秋にヴィゴ夫妻は共に健康状態を悪化させ、専門医に診てもらうためパリへ行かざるを得なくなった。そしてこのときに、ヴィゴはパリでボリス・カウフマンと出会うことになるのである。ボリスはロシアの映画人ジガ・ヴェルトフ(本名ダヴィド・カウフマン)とその弟ミカイル・カウフマン──二人は名高い『カメラを持った男』(29)の監督と撮影者である──に続くカウフマン兄弟の末っ子で、ロシア革命を機に(11歳のときに)両親と共に亡命の道を選んだ(二人の兄は故国に残った)。カウフマンが自身の撮影による短編記録映画を二本ヴィゴに見せると、後者は即座にニースをめぐる映画の企画に彼を誘った。そしてヴィゴは1929年の暮れに再び方向性を変え、都市の現代的側面にのみ焦点を当てることにし、カウフマンの助けを借りて脚本を執筆した。
完成作のクレジットでは、「監督」はヴィゴとカウフマンの連名になっている。映画は大まかに次の五つの部分に分けることができるだろう。まずニース上空から街をとらえた空撮、ヤシの木の仰角ショット、浜に打ち寄せる波をとらえた画で構成されるプロローグ的部分。次いで、カジノや浜辺で楽しんだり退屈したりしている富裕層、地元の貧困層、カーニヴァルをとらえた三つの主要部分が続く。最後に、さまざまな彫像のモンタージュが提示され、工場労働者をとらえた短い場面がこれに続くエピローグ的部分。 『社会的な映画を目指して』と題されたヴィゴの講演録がある。この中で、ヴィゴはブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』(29)を絶賛し、「社会的な映画を目指すには、例えて言えば肉に食い込むような主題、つまり刺激的な(あるいは挑発的な)主題を作り手が引き受ける必要がある」と述べている。そのうえで、ヴィゴがその種の映画の代表例として挙げているのが「社会的なドキュメンタリー映画」(他の芸術形態にも科学にも実現することのできない、真に映画ならではの芸術)である。つまり、現実を記録するカメラの視線がすべての中心をなすような芸術のことだ。いわばものごとの隠された真実を白日の下に晒して、人々の目を見開かせるような映画のことを社会的ドキュメンタリーと呼んでいるのである。そうした映画を作る試みの一つが、ヴィゴにとっては『ニースについて』だった。もっとも、ヴィゴ自身はこれを「社会的ドキュメンタリーの下書きにすぎない」と言っている。ヴィゴとカウフマンは膨大な素材を撮り終えた後、論理的に再構成し難いそれら(バラバラな)素材を何らかの物語へとわかり易く組み立て直そうとはしていなかったようである。ネップ期前後のソヴィエト映画に魅了されていたヴィゴは、「アトラクションのモンタージュ」や「キノ=グラース(映画眼)」的な編集および撮影テクニックをいくつかのシークエンスに導入したいと考えていたというし、実際ここにはそうしたテクニックが用いられているのを見て取ることができる。このようなやり方を採るようヴィゴを促したのは、もちろんジガ・ヴェルトフの弟ボリス・カウフマンだった。本作にシュルレアリスム映画とキノ=グラースとモンタージュ理論の融合的側面が感じられるのは、そのためだろう。
(2017年12月22日発売 ブルーレイ封入ブックレットより転載)
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