ジガ・ヴェルトフ集団の冒険

堀潤之/映画研究者

ブリティッシュ・サウンズ | 1969
プラウダ(真実) | 1969
イタリアにおける闘争 | 1970
ジェーンへの手紙 | 1972

 1960年に『勝手にしやがれ』でデビューしてから、1967年の『ウイークエンド』までは型破りでありながらも商業映画の枠内で作品を撮り続けてきたゴダールは、1968年以降、五月革命のインパクトも受けて、新たな若い新左翼の仲間たちと、通常の映画配給ルートには乗らない戦闘的映画の製作に身を投じる。以後、1972年のジャン=ピエール・ゴランとの共同監督作品『万事快調』で商業映画にひとたび復帰するまでの彼の動きは、きわめて密度の濃いものでありながら、長らく、相対的に不可視の状態にとどまっていたと言える(ゴダールが定期的に商業劇映画を世に出すようになるのには、さらに1980年の『勝手に逃げろ/人生』を待たなければならない)。日本では、2012年にIVCから発売された「ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団ボックス」が、『ウイークエンド』から『万事快調』の間に撮られた長編作品10作品のうち、6本の作品を収録している(製作年代順に、『ウイークエンド』『たのしい知識』『ありきたりの映画』『東風』『ウラジミールとローザ』『万事快調』)。今回のボックスには、『東風』の前に撮られた『ブリティッシュ・サウンズ』『プラウダ』の2作品と、『東風』の直後に撮られた『イタリアにおける闘争』、そして『万事快調』のアメリカ公開時の併映作として作られた中編『ジェーンへの手紙』が収められている。この二つのボックスによって、この時期のゴダールの活動のうち完成作に至ったものはすべて手軽に視聴できるようになった。

 本ボックス所収の4作品は、主な協力者の違いによって二つに分けられる。『ブリティッシュ・サウンズ』と『プラウダ』は、若き毛沢東主義者のジャン=アンリ・ロジェを協力者としつつ、あくまでゴダールが主導権を握って作られたのに対して、『イタリアにおける闘争』と『ジェーンへの手紙』には、もう一人の若き毛沢東主義者ジャン=ピエール・ゴランの影響が非常に強くみられるように思われる(『ジェーンへの手紙』は、『万事快調』と同じくジガ・ヴェルトフ集団作品ではなく、そもそも二人の共同監督作品としてクレジットされている)。ひょっとしたら、ロジェは撮影には同行したが編集にはあまり関わらなかったのに対して、ゴランは編集過程にも積極的にコミットしたことが、そのような違いを生んでいるのかもしれない。ともあれ、この4作品を順番に見ていくと、ゴランという協力者が、ジガ・ヴェルトフ集団の理論的な洗練化──良くも悪くも──にいかに寄与したかが手に取るように分かるはずだ。ロジェと組んだ2作品が一種の遊戯的なオプティミズムに貫かれているのに対して(特に『ブリティッシュ・サウンズ』)、ゴランの影響が強い2作品は冷徹なまでに理路整然としているという印象を与えるだろう。この点に関しては、以下に続く各作品の解説を読んでいただいた後、最後にまた立ち戻ってみたい。

 なお、ここで『ジェーンへの手紙』を除く3作品が、かつて日本語吹き替え版で公開されたことにもぜひ触れておきたい。日本では、ジガ・ヴェルトフ集団作品はまず『東風』が1970年夏に封切られ、次いで、「ゴダール・マニフェスト」という連続上映の一環として、『イタリアにおける闘争』(第2期、1970年11月)、『ブリティッシュ・サウンズ』と『プラウダ』(第4期、1971年11月)が公開された。この3作品が吹き替え版で公開されたのは、ゴダールの指示もあったそうだが、アジプロ的な膨大な量のナレーションを処理するには字幕よりも吹き替えの方がふさわしいことは容易に想像が付く。吹き替えには小松方正や戸浦六宏といった創造社の俳優たちも協力しており、日本語版台本はフランス映画社の柴田駿を中心に作成したものを松田政男や津村喬が監修するというように、これらの作品の公開はまさに集団製作の実践によってなされていた(日本公開時の状況については、『文藝別冊 ゴダール 新たなる全貌』所収の松田政男へのインタヴューを参照)。この解説執筆にあたっても、「ゴダール・マニフェスト」上映時の冊子に掲載された質の高い日本語版台本を大いに参照したことを付記しておきたい。

ブリティッシュ・サウンズ

 1968年の夏にイギリスに渡ってローリング・ストーンズと一緒に『ワン・プラス・ワン』を作ったゴダールは、翌年2月に再びイギリスで映画を撮ることになる。ケン・ローチの『ケス』(1969)のプロデューサーであるトニー・ガーネットらによるケストレル・プロダクションが、イギリスについてのドキュメンタリー映画を依頼したのだ(ロンドン・ウィークエンド・テレヴィジョンで放映予定だったが、結局、放映は拒否された)。プロダクションの共同経営者の一人であるアーヴィング・タイテルボームの妻モー・タイテルボームが五月革命の頃、ゴダールと知り合っていたことがこうした依頼につながったようだ。ただ、今回のゴダールは、20歳になったばかりのジャン=アンリ・ロジェを伴っていた。当時、ゴダール家に入り浸っていたというこの若き毛沢東主義者と議論をしながら、ゴダールは『ブリティッシュ・サウンズ』を撮影することになる。

 『ブリティッシュ・サウンズ』は、ジガ・ヴェルトフ集団作品のなかで、『東風』と並んで、視聴覚的体験という意味では最も刺激的なものと言えるかもしれない。そのような印象を与える大きな要因は、全体を通じてみれば豊かで、変化に富んだサウンドトラックの存在だろう。タイトル画面として機能している映画の最初の映像で、ユニオンジャックの中央に三行にわたって「ブリティッシュ」「イメージズ」「サウンズ」と書き込まれていて、「イメージズ」が抹消されているとおり、この作品で重要なのは、映像である以上に音なのだ。ゴダールは、この作品のマニフェスト的な文書で、『ブリティッシュ・サウンズ』は「ある帝国主義的な音と敵対関係に置かれるある革命的な音のこと」であるとし、それが「映像と音の闘争にほかならない弁証法的ななにか」を通じて表されると述べる(「最初の《イギリスの音》」、『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年、81頁)。のちの『プラウダ』や『イタリアにおける闘争』よりも、映画の視聴覚的構成により大きな注意が払われていることが、この作品の大きな魅力であろう。

 『ブリティッシュ・サウンズ』は6つの長いシークェンスから成る。まず、当時イギリス最大の自動車会社ブリティッシュ・モーター・コーポレーションの組み立てライン──MGというスポーツカーが組み立てられている──が、『ウイークエンド』(1967)の渋滞シーンを想起させるような、非常に長い横移動によって示される(おそらく、ワンショットで撮られたものが編集によっていくつかに分割されている)。『ウイークエンド』でも耳障りなクラクションの音による喧噪がそのシーンを支配していたように、このシークェンスでも耳をつんざくような工場の騒音がサウンドトラックを支配している。加えて、マルクスの『共産党宣言』からの抜粋を読み上げる男の声と、イギリスの労働運動における重要な日付を父親が子供に復唱させる声が差し挟まれている(このやり取りは、以降のシークェンスでも断続的に継続されている)。

 続くシークェンス「闘争の音」は、本作品で最も物議を醸した箇所である。裸の女性が廊下を歩いたり、階段を上り下りしたり、電話で話したりする姿が映し出され、その間、サウンドトラックでは主に女性の声によって、女性の従属的な地位を分析し、女性解放運動の行き当たる困難について述べる文章が読まれる。この文章は、イングランドにおける女性解放運動の先駆者のひとりであるシーラ・ローボタムが左翼系雑誌『ブラック・ドウォーフ』に書いたもので(この記事をゴダールに教えたのは、モー・タイテルボームだったという)、当初、彼女自身が裸で出演することを打診されたが、結局、画面外の声だけを担当している。コリン・マッケイブが伝えるところによれば、ローボタムは当時のことを回想して、「いったいなぜ、煩わしい男の考えは、解放を語る言葉からすぐに裸体へと飛ぶのだろう、と私は不思議に思った」と述懐している(『ゴダール伝』、みすず書房、2007年、219頁に引用)。

 画面に出てくる裸の女性は、通常の意味でのエロティシズムを剥奪され、きわめて即物的にただ裸であるという状態を現出している。ゴダールは、裸の女性を登場させることで、一見、読まれる文章とは正反対の立場で女性の身体の搾取を行っているようにみせかけて、しかし想定される男性観客の欲望を空転させるという操作を行っているのだ。とはいえ、シークェンスの後半で、画面外の男性の声が「性器を隠せ」という言葉を発するときに、画面に女性の下腹部だけが長く映し出されるのには、はるか『さらば、愛の言葉よ』(2014)にまで続く、ゴダールの恥毛への条理を越えたこだわりが見て取れるように思う。

 第三のシークェンス「資本の音」では、スーツを着た若い男性が、テレビのニュース放映を模倣した白黒映像で、カメラに向かって話しかける。しかし、イギリスの労働者たちの姿(道路、港湾、工場などの)のカラー映像を差し挟んで展開されるこの話の内容は、テレビでは通常、決して放映されることのない、極右的で、ファシスト的、人種差別的、移民排斥的な言説である。ニュース番組のパロディとして、支配階級の言説を露骨なかたちにまで誇張して赤裸々に提示しているのだ。時おり画面外の声がささやき声で「団結しよう!」とか「組織しよう!」と合いの手を入れるのが、音響的なコントラストを形作っている。

 次のシークェンス「労働者の音」では、自動車工場の労働者たちが、ピカソの《ゲルニカ》が飾られた集会所で、自分たちの仕事の非人間性について、能力給がもたらすストレスについて、資本主義の矛盾と真の共産主義政党の建設について、話し合っている姿が映し出される。カメラはほとんどの箇所で話者をあえてフレームから外そうとしており、もっぱら聞き手の顔をとらえることに専心しているようだ。それもまた「音」に観客の意識を集中させるための方策なのだろう。労働運動の日付の復唱は、今度は母親と子供によって続けられている。

 第五のシークェンスは「学生の音」と題され、左翼的な傾向が強い大学とみなされていたエセックス大学の学生たちが、ビートルズの曲のラディカルな替え歌を作るさまを示す。《ハロー・グッドバイ》の「君はさよならといい、ぼくはハロー」が「君はUSAといい、ぼくは毛沢東」といった具合である。この微笑ましい革命的な「お遊戯」は、おそらく、前年の1968年の盛り上がりが早くも退潮しかけていることを表している。実際、マッケイブが伝えるモー・タイテルボームの証言によれば、ゴダールは学生たちの行儀の良さにがっかりしていた。しかし、撮影された学生たちの一部は、その後、イギリスのテロリスト集団である〈怒りの旅団〉のメンバーになったという(『ゴダール伝』、218頁)。

 最後のシークェンス「革命の音」では、血まみれの腕が雪と泥の地面を這って赤旗をつかむまでの過程が映し出され、マルクス・レーニン主義の言説といろいろな国の革命歌の断片が、賑やかなサウンドトラックを構成する。タイテルボーム夫妻の自宅の庭で撮影された血まみれの腕はゴダール自身のもので、しかもゴダールは血糊を用いずに自分の腕を切ったという。腕が赤旗に到達した後には、紙製のユニオンジャックを後ろから拳が突き破る勇ましい映像が何ショットも続けざまに登場し、男性と女性の声がユニゾンで革命的スローガンを高らかに読み上げる。再び赤旗が曇天をバックに左右に振られ、「階級闘争に終わりはない」という文字がエンドマークの代わりに出る。こうして、まるで自分自身を鼓舞するかのような、一種の高揚感を演出しながら、『ブリティッシュ・サウンズ』は終わりを告げる。

 なお、最初のシークェンスの末尾付近に登場する「仕事とは何か」という文字を皮切りに、全体にわたってちりばめられている手書きの字幕は、すべてをつなげるとひとつの文章を構成する。日本降伏後、毛沢東が国民政府の蒋介石との重慶交渉を終えてから幹部会議で報告した「重慶交渉について」という1945年10月の文書からの引用である。以下に全体を引用しておこう。「仕事とは何か。仕事とは闘争である。そうしたところには困難があり問題があるので、われわれがいって解決しなければならない。われわれは困難を解決するために仕事をしにいくのであり、闘争をしにいくのである。困難なところほどすすんでいく、それでこそりっぱな同志である」(http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-4/maosen-4-059.htmlより ※現在はリンク切れ)。

 『ブリティッシュ・サウンズ』には、革命的映画作りについてのいくつかの重要なテーゼが、画面外の声によって宣言されている。先にも触れたゴダールのマニフェスト的な文書「最初の《イギリスの音》」を参考に、そのいくつかを吟味しておこう。まず冒頭で、女性の声が『共産党宣言』の文句を引用しつつ、「要するに、ブルジョワジーは自分の姿(イメージ)に似せて世界を作り出す。同志諸君、われわれはそのイメージを破壊しなければならない」と宣言する。ゴダールは、マルクスとエンゲルスによる「ブルジョワジーは自分の姿に似せて世界を作り出す」という言葉を、いわば「映像の政治学」をめぐる文言として読み替えて、ブルジョワジーは自らの世界についてのイメージをも作り上げていると考える。そして、彼らはそのイメージを「現実の反映」であると言いつのる。しかし、写真は、客観的な現実を映し出すものではなく、「大衆に対して現実を偽装する手段」(80頁)として発明されたものなのだ。この着想は、第五シークェンスの画面外の声によって、「写真は現実の反映ではない。現実の反映という現実である」と定式化される。写真のイメージに、素朴なリアリズム的な反映ではなく、イデオロギー的作用の刻印を見て取ること──ジガ・ヴェルトフ集団の作品が、闘争のドキュメントに興味を示すことなく、イメージそのものの次元、映像と音の作用という次元の政治性にこだわり続ける根本的な理由はここにある。

 同じく第五シークェンスで読まれる、帝国主義的映画/修正主義的映画/戦闘的映画という三種類の映画の区別も、その後、人口に膾炙するようになった。帝国主義的映画は支配者の声をがなり立て、修正主義的映画は人民そのものの声ではなく、人民代表の声を歪めた形で伝えるのに対して、戦闘的映画が映されるとき、スクリーンは具体的状況についての具体的分析を提示する「黒板」となる。『中国女』(1967)の物語内でも十全に活用されていた学習の道具としての「黒板」は、ここで戦闘的映画そのものを表すメタファーに変貌する。「黒板としての映画」という発想は、1970年代末頃までゴダールの映画製作を規定することになるだろう。

プラウダ(真実)

 『プラウダ』は、ゴダールがジャン=アンリ・ロジェと撮影技師のポール・ブロンを伴って、1969年4月に二週間ほどチェコスロヴァキアのプラハに赴いて撮った素材を元に、同年末頃、ゴダールひとりの手によって仕上げられた(この間、新たな同志ゴランが加わって、『東風』の製作に大きく寄与しているが、『プラウダ』にはあまり関わらなかったようだ)。プラハへの旅費には、ニューヨークの出版社で、当時、ゴダールらの政治的な映画をアメリカに配給していたグローヴ・プレスから前借りされた6000ドルが当てられた。

 ゴダールたちがプラハを訪れたおよそ一年前、チェコスロヴァキアは、ノヴォトニーに代わって第一書記に就いたアレクサンデル・ドプチェクの指導下で「プラハの春」と呼ばれる民主化運動を経験していた。一党独裁を否定し、言論や表現の自由を認めるなど、いわゆる「人間の顔をした社会主義」を目指したこの運動は、しかしながら同年8月にブレジネフ政権のソ連の主導による軍事介入を招く。これが世界的な非難を浴びるものの、民主化を求める民衆の動きは引き続き抑圧され、ゴダールたちがプラハに赴いた1969年4月は、ちょうどドプチェクも解任され、「正常化」への逆戻りが決定的になるという頃合いだった。『プラウダ』はソ連の軍事介入に批判的である一方で、チェコスロヴァキアは「修正主義」という病にかかっていると断罪しているが、民主化の動きとその挫折という歴史的コンテクストに照らすと、その判断はいささか軽率なものだったように思えてならない。

 『プラウダ』は四部構成の作品である。第一部で提示される「チェコスロヴァキアの具体的状況」が修正主義という病気にかかっていると診断され(第二部)、それに対する処方箋としてマルクス=レーニン主義の言説が対置されたうえで(第三部)、ごく短い総括がなされる(第四部)という明快な構成となっている。全編にわたって、画面には登場しないウラディミールとローザ(もちろん、レーニンとルクセンブルクが念頭に置かれている)という二人の男女による饒舌なナレーションがかぶせられている。

 第一部に登場するのは、ゴダールたちが撮影したとおぼしきチェコスロヴァキアのさまざまな映像の断片群である。街路、商店、工場、団地、農場などの映像が、ウラディミールの画面外の声による簡潔な説明を伴って、矢継ぎ早に登場する。道路工事をする若い労働者たち、ダンスホールで踊る学生たち、川縁で洗車しているらしき夫婦など、プラハの住人たちも映されているものの、ゴダールたちが彼らと接触した形跡はない。サウンドトラックにはアメリカ的なポップ・ミュージックが断続的に流れ、カシミアのセーターを着たテレビの女性アナウンサー、ハニーウェル社の広告板、『プレイボーイ』誌のポルノ写真がアイロニカルに提示されるなど、すでに西洋文明の侵食が強調されている。全体的にくすんだ色合いが支配しているが、それだけに、全編のライトモチーフのように機能している「赤」、画面外の声でも言われるように、解放のために労働者が流した血と結びつけられている「赤」──下半分が赤色の路面電車、赤い自動車、一輪の薔薇の花──が印象的だ。ソ連軍の戦車が何度か提示されるなど、チェコ事件の爪痕も決して忘れられているわけではない。しかし、全体としては、第一部で提示される映像は、短期間の旅行で、熟慮されることなく掠め取られたものであるという印象はぬぐいがたい(移動中の車内から撮られた映像が散見されたり、ゴダールにあっては珍しくズームが使われたりすることも、その印象を強化する)。ゴダール自身も、これは「「政治的観光旅行」による撮影以上でも以下でもない撮影」、「幹部、労働者、学生、生産関係、アメリカかぶれ、修正主義などについての、いくらか行き当たりばったりに記録された映像と音」(『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』、83頁)であると認めているくらいなのだ。ちなみに、映画内ではこの文脈で、クリス・マルケルらがブザンソンのロディアセタ工場でのストライキを撮った『また、近いうちに』(1967)がさりげなく批判されている(なお、旅行に同行したポール・ブロンは、マルケル作品の撮影にも関わっている人物である)。

 しかし、ゴダールはこうした弱点を、編集作業によっていわば救出しようとする。第一部の末尾で、ウラディミールとローザは「感性的認識」から「理性的認識」へと移行して、修正主義という病に陥っているチェコスロヴァキアの「具体的状況を具体的に分析する」必要性を訴えるが、そのことは「映画の編集」によって映像と音をこれまでとは違うやり方で分析することと結びつけられているのだ。

 第二部では、チェコで掠め取られたさらなる映像に、引き続き、主としてウラディミールの声によって、より踏み込んだかたちで批判が加えられる。まず、空港のレンタカー会社はハーツやエイビスなので、国産車スコダを借りても、その労働者の剰余労働は帝国主義陣営によって収奪されてしまうという指摘や、ソ連の第二次五カ年計画期に生産性の向上を目指したスタハーノフ運動がいまやアメリカに由来するテイラー主義と「神聖同盟」を結んでいるという指摘など、チェコスロヴァキアの「実践」における「修正主義」と「西欧主義」が舌鋒鋭く批判される。その文脈で、画面には労働者、学生、農夫たちへのインタヴューが不完全なフランス語への通訳によって断片的に展開されるが、それらはひとしなみに「修正主義」と「西欧主義」の裏付けであるとされている。結論先にありきのインタヴューと言わざるを得ないだろう。さらに、『ひなぎく』(1966)で知られる前衛的な女性監督ヴェラ・ヒティロヴァへのインタヴューもなされているが、チェコ映画には機材も技術もお金もないが自由はあると語る彼女のコメント──しかし、この時期、彼女はほとんど活動できなかったはずだ──は、ミロシュ・フォルマンがパラマウントで映画を撮っていることや(彼はチェコ事件をきっかけに国外へ出ることになり、1970年代以降アメリカで作品を発表するようになる)、プラハの映画館でフランスの娯楽映画『アンジェリーク、天使の侯爵夫人』(ベルナール・ボルドリー監督、1964年)が上映されていることなどと並んで、「西欧イデオロギー」を利用する修正主義と性急に断定されている。

 修正主義に対する処方箋を提示する第三部では、「正しい映像を再発見するために、正しくない映像に正しい音を対決させる」という方法、すなわち、いくつかの論点に関するマルクス=レーニン主義の言説を、今度は主にローザの画面外の声によって映像に対置するという方法が採られる。具体的には、官僚政治の腐敗を戒める「党と国家の幹部への通達」や(「幹部」という小見出しが付されている)、知識人をプロレタリアートの世界観によって再教育する必要性を訴える言説や(「知識人の再教育」)、常備軍を廃止し、それを武装した人民で置き換えることと、一定の階級を抑圧するブルジョワ民主主義からプロレタリア民主主義への転換の並行関係を指摘する言説や(「軍隊」)、人民のための広範な民主主義がなければプロレタリア独裁は強化されないとする言説(「プロレタリア独裁」)などが読み上げられるのだが、これらはおそらく、同時代に流布していた毛沢東主義者周辺のパンフレットなどからつまみ食い的に取られたテクストだろう。

 第三部で読まれる文章のなかで、ひときわ興味を惹くのは、「農民」と題されたセクションで紹介されるレーニンをめぐる寓話的な物語である。少し長くなるが、まずはその内容を確認しておこう。最初に、一方では地主が貧農たちを搾取し、他方では鍛冶屋の親方が職人たち(もともとは貧農の子)を搾取しているという構図がある。あるとき、職人たちが鍛冶屋の親方を追放して権力を握り、それに呼応して貧農たちも地主を追い払い、土地を獲得する。しかしその際、レーニンは私有地を全廃せず、貧農たちにそれぞれの耕作能力に応じた小さな土地を分け与えたので、ローザ・ルクセンブルクはそのことを批判するが、彼は意に介さない。やがて職人たちはどんどん安価で鉄の鋤を生産するが、無数の貧農はもちろん、ある程度の大きさの土地を持つ中農も依然として木の鋤で満足していた。しだいに困窮に陥った貧農は、中農に憎悪を向けるようになり、レーニンもそれを煽る。そこで、職人たちが貧農たちに、土地の共有を勧め、そうすれば中農に優先して鉄の鋤を渡すと提案する(職人たちはすでに機械を共有して、鉄の鋤を作っているのだ)。こうして貧農たちは自発的に私有地を放棄し、かつてなく巨大な集団農場ができ、鉄の鋤を使うことで生産性も上がった……。

 後年のゴダールの未実現の企画である『動物たち』──社会主義者たちが握った権力が、女性、子供、動物たちによって順番に打倒されるという寓話──を想起させなくもないこのコルホーズの自発的な誕生というエピソードは、ベルトルト・ブレヒトの『墨翟(メー・ティ)──転換の書』の断章38「自分のことをなし、自然に自然の仕事をさせること」からほとんどそのままのかたちで引かれたものである(『ブレヒト転機の書』、八木浩訳、講談社、1975年、40-43頁を参照)。ブレヒトが主として1934年から37年にかけて書き継いでいた長短さまざまな300篇ほどの断章から成り、墨子の思想と、同時代の政治的状況と、マルクス主義思想が渾然一体となり、思想家たちが中国風の変名で登場する(マルクスはカー・メー、レーニンはミー・エン・レー、スターリンはニー・エンといった具合に)この特異な書は、この時期のゴダールとゴランの愛読書だったとも言われている(1972年にゴダールが交通事故に遭って重症を負ったのも、空港に行こうとしているときに本屋によってこの本を買おうとしたからだった)。ともあれ、このテクストは、第三部の他の文章にみられる有無を言わせぬ教条的なトーンとは対照的な静謐さをたたえており、同時に展開する荷車に黙々と藁を積み込む農民たちの姿はことのほか印象的である。

 第四部では、毛沢東が強調した三つの社会的実践──生産のための闘争、階級闘争、科学的実験──の重要性が再確認され、「毛沢東思想万歳!」の台詞に続いて、《インターナショナル》の替え歌をバックに、赤旗をなびかせた自動車が郊外の道をまっすぐに進んでいく映像で映画全体が締めくくられる。

 『プラウダ』は、プラハから持ち帰った映像、それ自体としては作品にならないような映像に、編集台の上で反省的なまなざしを注ぐことによって成立しているという点で、『ヒア&ゼア・こことよそ』(1975)を想起させる。この作品は、1970年に『勝利まで』という作品のためにゴダールとゴランがパレスチナに赴いて撮影したものの、編集に行き詰まって放棄していた素材を、のちに新たな同志アンヌ=マリー・ミエヴィルの協力を得て、「ここ」、つまり自分が今いるところと「よそ」の関係性をめぐる省察として仕上げるに至ったものだ。『プラウダ』は編集によって救われた作品であるとはいえ、その編集を統括する理念はいまだ確固たるものにはなっていない。後から振り返ると、『プラウダ』は、ゴダールが「ここ」と「よそ」の距離を測定するという新たな概念的視座を見出す以前に、暗中模索の挙げ句にかろうじて成立させた作品という印象を受ける。映画の中に、路面電車の終点で折り返しのために一周するループ線を俯瞰したショットが繰り返し登場するが、それはあたかも、いまだブレークスルーを見出せずに堂堂巡りしている感のあるこの作品それ自体のエンブレムであるかのようである。

イタリアにおける闘争

 ジガ・ヴェルトフ集団の4作目となる『イタリアにおける闘争』は、イタリアのテレビ局RAIから製作資金を得て1969年12月に撮られた(ただし、ジガ・ヴェルトフ集団のほとんどの作品の例に漏れず、完成作の放映は拒否された)。この時期のイタリアは「熱い秋」などとも呼ばれ、本作品でもわずかに言及されるフィアット工場でのストライキなど、各地で激しい労働争議が繰り広げられていた。しかし、本作品には「イタリアにおける闘争」の直接的な映像が登場することはいっさいない。それどころか、ミラノ郊外で撮られたいくつかのショット、および当時のゴダールの親しい友人で、ジル・ドゥルーズの親友でもあったジャン=ピエール・バンベルジェがリール近郊のルーベに所有する織物工場内のいくつかのショットを除けば、映画全体がもっぱら、パリのカルチエラタンにあるゴダールとアンヌ・ヴィアゼムスキーのアパルトマンの中で展開するのである。

 『イタリアにおける闘争』は、マルクス主義を奉じて革命運動に身を投じるひとりの若い女子学生パオラ・タヴィアーニ(『東風』でブルジョワ娘に扮したクリスティアーナ・トゥリオ=アルタンが引き続き演じている)が、自分の日常生活がどれほどブルジョワ・イデオロギーに浸されているかを自覚するまでの過程を三部構成で描き出す(以下、本篇からの引用は、原則として『ゴダール マニフェスト』〔フランス映画社+創造社、1970年〕の北原敦によるシナリオ採録に基づく)。第一部では、彼女の日常生活の様子が、画面外の声によって「闘争」、「大学」、「社会」、「家庭」、「住宅」、「セックス」などとラベルを貼られながら手短に提示される。より具体的には、闘争のためのビラを作り、大学の授業を受け、青年労働者に家庭教師をし、婦人服店でセーターを試着し(売り子の役でアンヌ・ヴィアゼムスキーが出演している)、家族と食卓でスープを飲み、トイレに入りたがっている弟を外で待たせながら洗面所で化粧をし、恋人らしき青年と話をするといった情景が、あえて平板にさせられたほとんど「貧しい」といってもいいような断片的な映像で展開される。しかし、第一部の最後ではパオラ自身によって、こうした映像が私自身の「断片」でしかなく、しかも「現実ではなく、反映」にすぎないことが指摘される。

 第二部では、そのような自覚に至ったパオラが、「人間の社会的存在が人間の思想を決定する」というマルクス主義的なテーゼを踏まえつつ、自分自身の生活を問い直す試みに乗り出す。彼女は婦人服店の売り子や、青年労働者との対話を試み、昼間からセックスできることがブルジョワ階級の特権であることに思い当たり、「夫婦のブルジョワ的概念」と闘おうとする。彼女は労働者に近づくために実際に工場に働きに出ることさえするが、工場生産のスピードについていけない。こうした試行錯誤を経て、彼女は第二部の終わり(あるいは、第三部の冒頭)で、「問題なのは反映それ自体ではなく、客観的諸矛盾を否定する反映と、それを表明する反映の闘い、世界が現状のままであることを望むブルジョワ・イデオロギーと、世界の変革を望む革命的なイデオロギーの闘いなのだ」という認識に到達する。

 第三部では、「第一部と第二部で機能していたイデオロギーのメカニズムを再考する」ことが試みられる。彼女は「私の存在の社会的諸条件と、それを規定している今日のイタリアの資本主義的生産諸関係と、私の思想との関係」を吟味する。その結果、第一部でのさまざまな日常的な活動の背後に具体的な(工場などにおける)生産関係が作動していたことを意識するようになり、さらに、たとえば、自分が大学という「国家のイデオロギー装置」で得た知識を青年労働者に伝えることによって、「資本主義的生産関係のたえざる再生産」を行っているにすぎなかったことを自覚する。第二部にも反省的なまなざしが向けられ、「ブルジョワ・イデオロギーはすべての領域で資本主義的生産諸関係の永続性を保障するように機能しているが、全体の主導権を握っているのは、もっとも重要な領域、つまり法的政治的領域だ」という認識から、闘争を「より広い闘争のなかに組みこんでいく必要」が訴えられる。最後に、ごく短い第四部で、パオラは「女優としての闘争行為」を実践に移すべく、「今日のイタリアのテレビで、いかに語るべきか?」と自問する。

 このようにひとりの女子学生の意識の変化をいささか図式的にたどる『イタリアにおける闘争』で、視覚的に最も興味を惹くのは、黒画面の使い方であろう。第一部で頻繁に挿入される黒画面は、いわばパオラの意識の欠落を表している。第二部の冒頭では、「この黒画面を生み出したものは何か?」、「この黒画面に代わるべきものは何か?」と画面外の声が問いかけ、第一部における黒画面の存在に注意を促す。そして第三部では、ついにパオラ自身が第一部の映像を再び取り上げながら説明するとおり、洋服を買ったり、スープを飲んだりする映像を取り囲んでいた黒画面の代わりに、具体的な生産関係を示す工場の映像が差し挟まれることになる。ブルジョワ・イデオロギーによって隠されていた生産関係が、こうして可視化されるのである。

 『イタリアにおける闘争』の理論的なバックボーンを成しているのは、マルクス主義哲学者ルイ・アルチュセールのイデオロギー論である。1965年の『マルクスのために』と『資本論を読む』で、構造主義の担い手として一躍有名になったアルチュセールは、長らく、フランスのエリート養成機関のひとつである高等師範学校で教鞭を執っていた。ジャン=ピエール・ゴランは高等師範学校への入学には失敗したが、ルイ・ル・グランの準備学級に通っていた時期もあるので、おそらく何らかのきっかけでアルチュセールの知遇を得ていたのだろう。アルチュセールの画期的な論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」は1970年6月に『ラ・パンセ』誌に発表されたが、ゴランは本作品の準備中にすでにその内容を知悉していたと思われる。

 この論文が提示する論点は多岐にわたるが、まずはアルチュセールがイデオロギーを「諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に対してもつ想像的な関係の表象である」(66頁)と定義していることを確認しておこう(引用は、『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』〔三交社、1993年〕所収の柳内隆訳による)。この定義はほとんどそのままの形で、第二部の冒頭で画面外の声によって導入されている。この観点からすれば、第一部における黒画面は、パオラの日常生活の「現実的諸条件」を隠蔽している「想像的な関係」を表したものなのだ。

 もう一点、「あらゆるイデオロギーは具体的な主体としての具体的な諸個人に呼びかける」(86頁)というテーゼも重要だ。イデオロギーは、たとえば警察の職務質問のような「呼びかけ」という実践を通じて実際に作動する。映画の中では、大学の試験場のシーンで試験官によって番号を呼ばれるシーンや、警官によって身分証明書の提示を求められるシーンにおいて、そのことがいわば図解されている。

 アルチュセールのイデオロギー論の最も重要なポイントは、国家の直接的な抑圧装置(政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、監獄など)とは区別されるような、「国家のイデオロギー諸装置」という考え方である。具体的には、教会、学校、家族、政党、メディアなど、直接的な暴力によってではなく、支配的イデオロギーによってそれに関わる者の「調教」を行っているような諸制度のことを指す。国家は単なる抑圧装置によってのみならず、こうしたイデオロギー諸装置と渾然一体となって権力をふるっているのだ。「いかなる階級も国家のイデオロギー諸装置によって、またはその中で、同時にそのヘゲモニーを行使しない限り、恒久的に国家権力を掌握することはできない」(41頁)のである。『イタリアにおける闘争』の第一部が、パオラの日常生活のさまざまな局面をいくつかの章に分けながら提示していたことの意味は、いまや明らかだろう。ゴダール/ゴランは、パオラの日常生活における「国家のイデオロギー諸装置」の作動ぶりに焦点を当てているのである。

 マッケイブの『ゴダール伝』がゴランの証言として伝えるところによれば、アルチュセールは妻と一緒にレンヌ通りの編集室に作品を見に来て、涙を流して感激したという。この作品がいかに忠実にアルチュセールのイデオロギー論を下敷きにして組み立てられているかの証左とも言えるエピソードである。だが、そのことは同時に、『イタリアにおける闘争』がいささか優等生的な、あるいは図式的な作品でもあることを意味する。この作品は、ジガ・ヴェルトフ集団の作品のなかで最も理論的に洗練されているが、そのことがかえって映画としての面白さを損ねているという印象はぬぐいがたいのだ。

ジェーンへの手紙

 ゴダールとゴランによる52分の中編『ジェーンへの手紙』は、1972年秋のニューヨーク映画祭で同じくゴダールとゴランによる長編『万事快調』と併映されることを前提に、同年8月に16ミリで作成された。この作品の主題は、『万事快調』でストライキ中の工場を取材するジャーナリストを演じたスター女優ジェーン・フォンダが主な被写体となったある一枚の写真、彼女がアメリカ合衆国の外交政策への抗議の意を示すために北ヴェトナムのハノイに赴いたときに撮影され、フランスの週刊誌『レクスプレス』の1972年7月31日号に掲載された写真である(当時の彼女は、ヴェトナム反戦運動に肩入れしており、「ハノイ・ジェーン」などとも呼ばれていた)。ゴダールとゴランは、ジェーンに宛てた長い手紙というかたちで、代わる代わる画面外の声を(彼らにとっての外国語である英語で)担当しながらこの一枚の写真を精密に分析し、そこにどのようなイデオロギー的機能が隠されているかを仮借ないまでに暴き出していく(この長文のテクストは、わずかな異同を伴いながら、「ある映像についての調査」として『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』の135-166頁に収録されており、以下の引用も原則として本書による)。

 では、『レクスプレス』誌の「ハノイからの帰還」という特集記事の冒頭を飾るこの写真、「アメリカ軍の爆撃についてハノイの住民に問いかけるジェーン・フォンダ」というキャプションが付けられたこの写真はどのようなものなのか? 斜め前から撮られたジェーン・フォンダは、神妙な顔つきで、斜め後ろから撮られたヘルメット姿のヴェトナム人(顔は見えない)と向かい合っている。彼女の髪の毛はぼさぼさで、首からペンタックスのカメラを提げている(ただし、画面に登場する写真は元の写真の下側が三分の一ほどトリミングされており、カメラはフレーム内には入っていない)。その様子を、二人の間に挟まれた後景から、わずかにピントの外れているもう一人のヴェトナム人男性がこれまた神妙な顔つきで見守っている。撮影者は、映画の中ではジョゼフ・クラフトと言われており、確かにこのアメリカ人ジャーナリストは『レクスプレス』誌の特集のもう一人の主人公なのだが、実際には、当該の写真はフォンダに同行した報道写真家ジェラール・ギヨームによるものである。

 ゴダール/ゴランは、この写真の具体的な分析に入る前に、なぜ『万事快調』について直接語るのではなく、代わりにこの写真を取り上げるという「迂回」を行うのかについて、かなり長い説明をすることから始める。その最も大きな理由は、両方とも「知識人は革命のなかでどのような役割を果たすべきなのかという疑問に答えているから」というものだ。だが、この写真が、アメリカの女優が「ヴェトナム人民の独立のための闘争に奉仕しているところを提示」することで、その問いに対していわば性急に「実践的な答え」を出しているとするなら、『万事快調』は、その問いに対して間接的に──「すぐにはこうしたたぐいの答えは提出すまいとするようなやり方で」──答えているのだという。ゴダール/ゴランによれば、そのような「実践的な例」は、「われわれのめいめいが、自分が今いるところですべきこととすべきではないことについてのいくつかの結論を引き出す」ことができるような仕方で機能しなければならないはずなのに、ジェーン・フォンダの写真は、良心的知識人のアンガジュマンという、それ自体、紋切り型と化したイメージを安易に流通させ、消費させるという社会的な体制にあっさりと与してしまっている。そのことを明らかにするべく、ゴダール/ゴランは、「われわれはこの写真をどのようにして見たのか、われわれの視線はこの写真を見ながらどのように機能したのか」と問いかけなければならない、と訴える。

 こうした約20分におよぶ総論に引き続き、ゴダール/ゴランは写真の具体的な分析に移行する。彼らがまず槍玉にあげるのは、写真に付された説明文だ。写真を撮った者ではなく、それを頒布する者(『レクスプレス』誌の編集者)によって書かれたその文章は、「写真のなかのヴェトナム人たちについては語っていない」。さらに、先述のように「アメリカ軍の爆撃についてハノイの住民に問いかけるジェーン・フォンダ」と書かれているが、その問いかけやヴェトナム人たちによる答えについては何の言及もないうえに、そもそも彼女の口は閉ざされているので、むしろ「耳を傾けている」とすべきであって、ここには「技法上の嘘」がある、と。

 こうした説明文に加えて、この写真の技法的な要素にも分析のメスが加えられる。まず、この写真はわずかにローアングル気味になっているが、オーソン・ウェルズの初期作品を見れば分かるように、そのアングルはある種のコノテーション(威厳、尊大さ、権力、等々)を孕まざるをえないものである(ここで、『市民ケーン』と『偉大なるアンバーソン家の人々』のいくつかの仰角のシーンのスチル写真が提示される)。また、フレーミングに関しても、単に「闘っている最中のスター」をとらえているだけでなく、「闘士がスターとしてもフレームにおさめられている」ような計算がなされている。にもかかわらず、この闘士が女優でもあるということは、十分に意識されていない。さらに、ジェーン・フォンダという「有名なアメリカ人」にピントが合わされ、後景のヴェトナム人がぼやけていることも批判の対象になる。実際にはむしろ、「ぼやけているのはアメリカの左翼であって、ヴェトナムの左翼の方はこのうえなく鮮明」なのである。

 続いて、ゴダール/ゴランは、ジェーン・フォンダの表情が、「スタニスラフスキー的ショービジネスによるハリウッド的指導」に基づく「悲劇女優の表情」であると指摘する。それは彼女が『万事快調』や、アラン・J・パクラの『コールガール』(1970)で見せている表情、さらには彼女の父親であるヘンリー・フォンダが『怒りの葡萄』(1939)や『若き日のリンカーン』(1939)で見せている表情と同じである、と。ゴダール/ゴランはさらに進んで、そうした表情はトーキー映画以降に登場した表情であり、それ以前の「サイレント映画の大スターたちの表情と技術的に異なるものである」と主張する。サイレント映画の俳優たちの「われあり、ゆえにわれ考える」というあり方に対して、トーキー以降は「われ考える、ゆえにわれあり」というあり方が支配的になり、その結果、「どの俳優も同じことを語りはじめることになる」。この奇抜なテーゼを論証するべく、ゴダール/ゴランが「クレショフの実験を掘り下げ」た実験を画面上で展開しているところが興味深い。リリアン・ギッシュやファルコネッティの顔にヴェトコンの屍体の映像をつなぐと「どの顔もそれぞれ違った表情をうかべる」のに対して、トーキー以降の映画のみならず文学や政治の世界の「スター」たち(マーロン・ブランド、ソルジェニーツィン、ゴルダ・メイア、等々)はヴェトコンの屍体を前にしても同じ相貌に収まってしまうのだ、と。もちろん、これは論証としては成り立たないゴダール的な錯乱した論理の実践なのだが、この中編の視覚面においては最も印象に残る箇所かもしれない。

 ジェーン・フォンダの表情に対する執拗な攻撃はさらに続く。今度は後景のヴェトナム人が切り離されて拡大され、そうすれば「彼の顔はわれわれを、彼が毎日立ち向かっているものに送り届けていることがわかる」──なぜならこれは「ヴェトナムの革命家の顔だからである」──と強弁される。逆に、ジェーン・フォンダの顔を切り離してみても、「この顔はわれわれをなににも送り届けようとはしない」。彼女は「デカルトのわれ考える(コギト)の表情」をしてみせるだけ、「ヴェトナムのなかに恐怖という言葉を読み取ることだけで満足している」のであると断罪される。この写真においては「あるスターのメーキャップが、そのメーキャップを落とそうとする行為それ自体によってあばき出されている」のである。

 ちなみに、彼らはジェーン・フォンダが女優であることを非難しているわけではなく、北ヴェトナムが彼女を「戦闘的女優として招待した」のに、十分に女優としてふるまっていないことを咎めている。彼女は「自分の女優としての機能についての新しいスタイルの疑問を、社会的にも技術的にもひとつも自分に提起してはいない。(……)彼女はよそについて語っていて、自分が今いるところについては語っていないのである」。だから、『レクスプレス』誌に好きなように扱われてしまっているのだ、と。言い換えれば、ジェーン・フォンダが女優という仮面をかぶっていることはいいとして、彼女は「なにがだれに仮面をかぶせているのか、だれがなにに仮面をかぶせているのか、だれに味方し、だれに敵対して仮面をかぶせているのか」ということにあまりにも無頓着である。そうしない限り、「仮面というものの社会的効用性」、「戦略的かつ戦術的必要性」を決定することはできない。ゴダール/ゴランはこのように、週刊誌に掲載された一枚の写真の背後にうごめくさまざまな力学に目を凝らすことの必要性を訴えるのである。

 こうした映像の分析は、いくつかの同時代の思潮を思い起こさせる。まず、文芸批評家のロラン・バルト──ゴダールは彼を『アルファヴィル』(1965)に起用しようとしていた──は「イメージの修辞学」という1964年の論文で、デノテーション/コノテーションなどの記号学的概念を駆使しながら、パンザーニ社のパスタの広告画像の言語的メッセージと図像的メッセージがもたらす意味作用を詳しく分析している。さらに遡れば、バルトは1954年から『レ・レットル・ヌーヴェル』誌に連載していたコラム「今月の神話」(1957年に『神話作用』としてまとめられた)で、大衆文化のさまざまな側面(週刊誌の写真、映画、展覧会など)を取り上げて、自明と思える事柄にイデオロギー的な押しつけが潜んでいることを暴いていた。ゴダール/ゴランによる分析も、こうしたバルトの試みの延長線上に位置づけられる。もう一つ、アルチュセールのイデオロギー論の影響も見逃せない。先述のように、アルチュセールの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」では、教会、学校、情報メディアなどが、暴力によって機能する国家の抑圧装置とは区別されるような、「国家のイデオロギー諸装置」であるとされている。ゴダール/ゴランが大部数の週刊誌の社会的な機能の仕方を分析の俎上に載せるやり方は、そのような考え方と通底していると言ってよいだろう。

 この「手紙」は、果たして宛先に届いたのだろうか。ジェーン・フォンダがまったくの善意と使命感でもって活動していることが、結果として、ステレオタイプ的な「行動する有名人」の枠内で消費されてしまっていることは確かであるにしても、そのことに対して彼女は部分的な責任しか負っていない(国家のイデオロギー装置の作動を個人的な抵抗で完全に止めることはできないのだから)。にもかかわらず、ゴダール/ゴランは、彼女本人に宛てた「手紙」というフォーマットで、しかも二人の男性が交互に間断なく一方的な批判を浴びせかけるというやり方をとっている。もちろん、彼らは「手紙」のなかで、男性二人による女性への攻撃という構図を問題視してはいるし、これが個人的な攻撃ではないということも強調している。それでも、『ジェーンへの手紙』にある種の性格の悪さや女性嫌悪(ミソジニー)を感じ取らないわけにはいかないだろう。ゴダール/ゴランは彼女と対話ができることを期待してこの作品を作った。しかし、ジェーン・フォンダがこの映画に何らかの応答をしたという形跡はない。

 この時期のゴダールの伴侶で、のちに女優から作家に転身したアンヌ・ヴィアゼムスキーは、ゴダールとともに過ごした1967年から68年の期間を2冊の小説で活写している。そのうちの一冊、1968年5月の激動の日々を中心に綴った『一年後』(Anne Wiazemsky, Un an après, Gallimard, 2015)では、ジャン=ジョックとシャルルという偽名で、それぞれジャン=ピエール・ロジェとジャン=ピエール・ゴランも登場する(ちなみに、この二人以外は実名で登場する)。当時20歳そこそこだったヴィアゼムスキーの一歳年下のジャン=ジョックは、きわめて陽気で人なつっこく、割れるような大声で無限のレパートリーを持つ革命歌をつねに歌っている人物として描かれている。ゴダールは彼を「ぼくの政治委員」と呼ぶなど、この年少の友人をかわいがり、ジャン=ジョックの方も頻繁にパリのカルチエラタンにあるゴダールたちのアパルトマンに寝泊まりする。ヴィアゼムスキーは自分たちを両親扱いするジャン=ジョックに時おりうんざりするが、基本的には彼に好意的なまなざしを注いでいる。それに対して、ヴィアゼムスキーのシャルル評は手厳しい。彼女より四歳年長のシャルルは、同世代の若者が持ち合わせていない知性と成熟と権威の持ち主とされているが、衒学的でいけ好かない、ほとんどゴダールを悪の道に誘い込もうとしている人物として描かれているのだ。もちろん、『一年後』は「小説」と銘打たれているので脚色もあるだろう。だが、こうした人物評は、ほとんどそのまま、彼らのそれぞれが協力したジガ・ヴェルトフ集団作品の特色としても通用するように思える。この時期を清澄な文体で活写した当のヴィアゼムスキー自身は、革命的な言説を弄することや、戦闘的映画を製作することにはほとんど興味を持っていなかった。それだけにかえって、彼女は、政治的内容を括弧に入れたときの人物(そして作品)の立ち居振る舞いを的確に指し示すことができたのであろう。

【主要参考文献】
コリン・マッケイブ『ゴダール伝』、堀潤之訳、みすず書房、2007年
『文藝別冊 ゴダール 新たなる全貌』(編集・制作 平沢剛)、河出書房新社、2002年
Antoine de Baecque, Godard: biographie, Grasset, 2010.
Richard Brody, Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard, Faber & Faber, 2008.
Julia Lesage, “Godard and Gorin’s left politics, 1967-1972,” in Jump Cut, no.28, April 1983, pp.51-58. (http://www.ejumpcut.org/archive/onlinessays/JC28folder/GodardGorinPolitics.html)

James Roy MacBean, Film and Revolution, Indiana University Press, 1975.

(2015年10月30日発売「収録:「ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団BOX deux」封入ブックレットより転載」
 © 1969 Gaumont
 © 1972 Gaumont

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