新学期操行ゼロ|作品解説

遠山純生(映画評論家)

 原題は「操行点ゼロ」。品行の悪さのおかげでこの評価を教師から頂戴すると、生徒たちは日曜日に外出することができなくなる。

 ヴィゴが映画製作に関心を持っている富裕な実業家ジャック=ルイ・ヌネーズと出会い、おとなに抑圧される子どもたちを主題とした映画のアイディアを語ったことが、本作(当初は『劣等生たち』と題されていた)の実現につながった。この主題は、ヴィゴ自身が経験した二つのできごとによって形成されたものであった。一つは、アヴェロン県ミヨーとウール=エ=ロワール県シャルトルで過ごした幼少時代(とりわけ前者における四年間にわたる寄宿学校生活)。もう一つは、ジャーナリスト兼反軍国主義活動家の父ミゲル・アルメレイダ(1883年~1917年/本名ウジェーヌ・ボナヴェントゥル・ジャン=バティスト・ヴィゴ)が、少年刑務所に収監されたときの経験。ミゲルは七歳の頃、窃盗幇助の廉で──表向きの罪状はそうだったが、実はアナキスト活動家だったために──逮捕・投獄されたのだった(このときに「ミゲル・アルメレイダ」に改名)。だがアナキスト風刺紙「フリジア帽」に参加したことで、対独協力の廉で逮捕・処刑された同紙発行人らに連座するかたちで逮捕・収監され、わずか34歳で獄中死した(第一次大戦中に対独通牒の廉で告発された急進派政治家ジョゼフ・カイヨーらの命令で、口封じのために絞殺されたともいわれる)。風刺週刊誌「バター皿」1907年11月30日号に掲載された、刑務所体験を詳細に綴った父の記事(子どもたちが無慈悲に扱われる様子が描写されていた)にショックを受けたヴィゴは、同記事に書かれていたいくつかの細部を自作脚本に導入したという。だが『新学期・操行ゼロ』を着想したヴィゴに最も強い影響を与えていたのは、12歳のときに父を亡くした彼自身が耐え忍ばなくてはならなかった少年期の苦難だった。父が敵国協力者の汚名を着せられて獄死したことから、本名を名乗ることができなかったのである(とはいえ彼は父の無実を確信していた)。この経験を通じて、ヴィゴは大人社会のなかにいる子どもの傷つき易さに敏感になったのだといわれる。そして少年時代の記憶は成長後もヴィゴを苦しめ続け、彼は子どもをめぐる映画を作ることで自らを解放したいと長年願っていたのだという。

 劇中、主に四人の少年に焦点が当てられる。コサ、ブリュエル、コラン、タバールだ。このうちコサとブリュエルはヴィゴがミヨーで出会った少年たちをモデルにしており、コランはシャルトルの少年をモデルにしている(しかも彼らの実名を使っている!)。たとえばミヨー時代のヴィゴの学友ジャック・ブリュエルはクラス一の「タフガイ」で、病弱で繊細で神経質なヴィゴを自分の庇護下に置き、もう一人の悪がきジョルジュ・コサと固い友情で結ばれた三人組を形成していたとのこと。他方、ヴィゴにはタバールという名の学友はいなかったようである。本作のタバールは当初女の子のように脆弱(彼は新生活に尻込みし、母親から離れたがらない)だが、その後年長の悪童ブリュエルとの交際のおかげで教頭らに目をつけられる。つまり、タバールはミヨー時代のヴィゴをモデルにした人物なのだといえよう。しかしタバールにはシャルトル時代のヴィゴの年下の(メルシエという名の)学友も投影されている。ということは、シャルトル時代のヴィゴもブリュエル役には投影されているわけであって、このモデル問題は一筋縄ではいかない。それだけでなく、コサにも幼き日のヴィゴをモデルにした部分があることを、ヴィゴ自身が明かしてもいる。劇中、日曜を後見人の家で過ごしている(目隠しされ椅子に座った)コサの頭上に、その家の娘である少女が金魚鉢を吊るしたうえ、彼の目隠しを取って二人して金魚を眺める場面が何の脈絡もなく登場するが、ここで描かれているできごとはまさしくヴィゴ自身が少年時代に経験したことなのだそうである。四人の主要人物以外の子どもたちも、ヴィゴが少年期に知り合った学友たちをモデルにしているとのことだ。

 他方、教師を始めとする大人の人物たちの場合、そのモデルを特定することはほぼ不可能(複数のモデルの性質が混ぜ合わせられていたりするため)だという。とはいえ顎鬚を伸ばした背の低い校長はシャルトルの学校長が実際にそういう人物だったというし、ジャン・ダステ演じる生徒たちの唯一の理解者であるユゲ先生もミヨーの寄宿学校に数週間のみ赴任してきたある教師をモデルにしている。

 子どもたちを中心とする出演者の大半は非職業俳優で、とりわけコサ役を演じたルイ・ルフェーヴルは、ヴィゴの家の近所に住んでいたやんちゃ坊主だった(彼は翌年、『アタラント号』にもミシェル・シモン演ずるジュールおやじの助手役で出演する)。

 抑圧的な寄宿生活に不満を募らせた学童たちが「宣戦布告」し、「先公打倒! 懲罰打倒!革命万歳!」と叫んで夜の寝室で枕投げを始める超現実的なシークエンスでは、コマ落とし、スローモーション、フィルムの逆回転を用いて、枕の中から出てきた無数の羽毛が舞い散る(あるいは舞い上がる)なか、彼らが「松明行列」をおこなう。翌朝、四人組は眠っている教師ペトセク(「横柄な奴」の意のあだ名)をベッドに縛りつけて壁に垂直に立てかけ、象徴的な磔刑に処す。その後校舎の屋根のうえに登った四人組が、校庭でおこなわれている学校の記念式典の列席者──知事や聖職者や教師たちが列席しているのだが、「列席者」には人形たちが紛れ込んでいることで、暗に権威を嘲笑しているかに見える──に向けてガラクタを投げつけ、「ぼくらの旗」たる髑髏印の旗を掲げると、生徒たちやユゲ先生は歓声をあげて彼らを支持する。そしてその後、四人組が屋根の傾斜部を上って行き、眼下に向かって手を振る後ろ姿を仰角でとらえたショットで映画は終わる。つまりこのとき、彼らは象徴的に空へ向かって登ってゆき、自由をつかみとるのである。階級社会の縮図たる学校における虐げられた者たちの反逆成就を示唆するこの画は、少年ヴィゴと彼の父アルメレイダ双方にとっての「悪魔祓い」であると同時に、不当な抑圧に抗する者の勝利を願うアナキズム賛歌でもあるのだろう。

(2017年12月22日発売 ブルーレイ封入ブックレットより転載)
©1933 Gaumont

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