草の上の昼食|作品解説

野崎歓(フランス文学者)

草の上の昼食 | 1959 

 60代半ばの巨匠が、いかに驚くべき若さにあふれていたかを示す傑作。それが『草の上の昼食』である。

 自らの会社「コンパニー・ジャン・ルノワール」の製作で、自分で書いたオリジナル脚本を自分で監督するのだから、これほどのびのびと撮られた作品もないだろう。ポール・ムーリスとカトリーヌ・ルーヴェルの年の差カップルのまわりには、旧知の俳優たちを配し──20年前に『ゲームの規則』に出演したポーレット・デュボスト、さらには25年前に『トニ』でタイトルロールを務めたシャルル・ブラヴェットまで重要な役で登場している──ここに“ルノワールの宴”がにぎにぎしく開かれた。楽しさを煽り立てるリズムの効いた音楽はやはり長年の盟友、ジョゼフ・コスマの作曲による。

 タイトルには「ジャン・ルノワールのコメディ」と記されている。深刻ぶることはいっさいなく、とにかく笑い、楽しむための映画だ。しかもルノワールの映画として、これほどメッセージ色の鮮明な作品もない。これは現代文明に挑戦し、科学技術の行き過ぎを指弾する果敢な「笑劇」なのだ。

 この作品を撮る前年、ルノワールは「いまいましき新世界」と題する講演を行い、理性万能の世の中に対し闘いを挑まなければならないと息巻いていた(『ジャン・ルノワール エッセイ集成』拙訳、青土社)。そこで発された「脳味噌くたばれ、官能万歳!」という叫びが、この映画のなかで叫ばれる「科学を粉砕!」に直結している。しかもまさに「科学者の独裁」の権化であるはずのアレクシ博士がそう叫ぶに至るなりゆきは、実にデタラメな痛快さというほかない。

 ドラマの主題となる人工授精のテーマを始めとして、放射能汚染や環境破壊、あるいは欧州統一、はたまた男女平等や有人月旅行など、よくまあこれだけ大問題が次々に俎上に載せられるものだと驚いてしまう。現代への予言をそこに聞き取りたくもなる。

 人間社会が「脳味噌」の支配のもとにおかれるとしたら、「官能」はいったいどこに求めればいいのか? いうまでもなく、自然のうちにである。ルノワールは、印象派の偉大な画家だった父オーギュストのこよなく愛した土地、南仏カーニュ・シュル・メールの村レ・コレットに全面的にロケし、父のタブローを引き継ぐ魅惑のカラー画面を生み出した。「美しいオリーヴの林と、風景と一体をなしているかのような小さな百姓家のために、彼(=父)はこの土地に夢中になっていた」とジャンは『わが父ルノワール』(粟津則雄訳、みすず書房)で書いている。ジャン自身も、「なんだか父がまだそこにいるような」気持ちにさせてくれるこの村を心から愛した。父オーギュストは、「科学は金銭的利益に仕えることでその使命を裏切った」と喝破する剛毅な精神の持ち主だった。『草の上の昼食』で繰り広げられる科学批判は、父の信念をそっくり受けつぐものなのだ。

 そして何といっても、ヒロイン・ネネットを演じるカトリーヌ・ルーヴェルは、ジャンがこれまで起用したなかで最もオーギュストの描いた豊満な女性像をほうふつとさせる女優ではないか。その彼女がアレクシ博士を「回心」させるという筋立てを、ルノワールは嬉々として描く。しかもネネット自身が、テレビで見たアレクシ博士に憧れ、人工授精を志願するという設定には皮肉な面白さがある。ダメ夫に尽くす兄嫁の苦労を身近に見て結婚生活に幻滅したものか、それともときおり訪れる行商人との関係にときめきを感じられなかったせいか、とにかくネネットは、子どもは欲しいが男はいらないという一途な想いにとりつかれ、アレクシ博士の門を叩いたのである。南の甘美な土地に育まれ、たえずくすくす笑っている陽気なネネットまでもが、そんな「反自然」的な考え方に染まってしまっているとしたら、由々しい事態ではないか。

 そこでルノワールは神の力にすがろうとする。神といってもそれはキリスト教と関係のない、古代ギリシアでパーン、古代ローマではファウヌスと呼ばれ、サチュロスとも同一視された、半人半羊の牧神である。シャルル・ブラヴェット演じる、愛嬌のある顔の羊を連れた老人は、田園を住みかとするこの牧神の化身にほかならない。30年前の『素晴らしき放浪者』以来、牧神を思わせる笛を吹く人物はルノワール映画のそこかしこに姿を見せ、一種のトレードマーク的存在となってきた。しかしこの作品においてのように、直接的に物語に介入し、淫らな風を吹かせて登場人物たちの身の上に重大な影響を与えるなどということはかつてなかった。地中海の陽光あふれ、豊かな水に潤されたカーニュの地でこそ、エロスと多産をつかさどる古代の牧神は本領を発揮し、情熱を忘れかけた人間たちを正道に連れ戻してくれるのだ。

 つむじ風が巻き起こるとあら不思議、女たちは「カッカしてきたわ」とにわかに欲情を催す。野外での昼食の光景が男女のまぐわいに転じていくなりゆきは、戦前の珠玉作『ピクニック』を思い起こさせる。だが『ピクニック』では、主人公の若い男女が抱擁し恍惚のときを迎えたその直後、一天にわかにかき曇って激しい雨が降り始め、休日は台なしになってしまう。『草の上の昼食』はそんな“涙雨”とは無縁だ。空はいつも晴れ上がり、からりと爽やかな空気にはおそらくオレンジの木や野草の匂いが甘く漂っているはずだ。画面にはオリーヴの梢が繰り返し登場し、地面に寝そべって木蔭で気持ちよさそうに昼寝する男たちの姿が描かれる。

 この土地では戸外が家の中などよりはるかに居心地の良い居室であり、寝室であるかのようだ。人類はなぜわざわざ苦労して月面に降り立とうなどと考えるのか、オリーヴの木蔭ほど素晴らしい場所はほかにないのにと、地元の老司祭はアレクシ博士に熱弁をふるう。アレクシ博士自身、それが真実であることを実地に体験するのである。それにしても彼が水浴びするネネットを垣間見てしまうあの沼の光景の何と魅力的なことか。樹木と水と光からなる別世界のなかに、彼女は生まれたままの肢体をのびやかに広げる。「浴女」はもちろん、父オーギュストの好んで描いた画題だった(オーギュストの妻となってジャンを産んだアリーヌ・シャリゴは浴女シリーズのモデルだった)。しかし父の絵画にかぎりない敬意を捧げながら、ジャンは映画ならではの技法を用いて、まったく独自の「ラブシーン」を実現してみせる。ネネットと博士が草むらに姿を消したのち、清冽な小川の流れ、水の中で長い髪のように葉をなびかせる水草、そして川が勢いを増し白波を逆立てて流れ落ちる様子が次々に写される。やがて川は幅を広げ、ゆったりと落ち着いた流れになり、昆虫がアップで写し出される。男女の愛の営みを周囲の自然に投影する一連の、素朴だがじつに感動的なモンタージュだ。二人の合体によって世界が授精されるかのような大らかな性愛礼賛の精神が脈打っている。

 健康美に輝く黒髪のカトリーヌ・ルーヴェルとともに、ジャン・ルノワールは自らの理想とする女性像を確かに描き出した。カトリーヌのうちには、幼いジャンの子守役であり終生、親しい間柄だったガブリエル・ルナールの面影が認められる。朗らかな黒髪の娘ガブリエルは、実母以上の愛情でジャンを包み、ジャンもガブリエルに心からの信頼を寄せた。ガブリエルこそ「私にとっては、あらゆる善き物を秤る尺度」であり、「故郷は、とりも直さずガブリエルのさまざまな姿の重なり合いからできあがっていた」とまで述べている(『ジャン・ルノワール自伝』西本晃二訳)。『草の上の昼食』は父の思い出に加え、ガブリエルの「さまざまな姿の重なり合い」に支えられた故郷への回帰だった。 

 今見直してみても破格の新しさと、始原的とさえいいたいような感覚に満ちた本作品は、ルノワールの多くの傑作同様、封切り時、興行的には完全な失敗に終わった。カトリーヌ・ルーヴェルはその後も着実に女優としてキャリアを重ねたものの、ジャンが二度と彼女を起用して映画を作れなかったのは残念なことだった。ただしもう自分には映画は撮れないと悟ったジャンが、70歳にしてなおありあまる表現意欲を小説にぶつけた『ジョルジュ大尉の手帳』(拙訳、青土社)が、『草の上の昼食』の女性像を引き継ぎ、さらに深めていることを付言しておこう。「一挙手一投足、ことごとくが生きる喜び」を表しているようなそのヒロイン──やはり豊満な黒髪の娘──のたどるドラマを、ぼくらはひょっとしたらルーヴェルが演じたかもしれない次なる作品として味わうことができるのだ。

© 1959 STUDIOCANAL

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