遠山純生(映画評論家)

『新学期・操行ゼロ』の次回作として、ヴィゴは当初、(父ミゲル・アルメレイダの知人でもあった)アナキストのウジェーヌ・デュドネ(1884年~1944年)の波乱に富んだ半生を描いた映画を撮ろうと考えていた。実のところヴィゴは、『新学期・操行ゼロ』以前にこの企画を映画化しようと目論んでいたのだが、検閲を刺激することを恐れて製作を延期したのだった。だが結局今回も、この『囚人流刑地からの逃亡者』と題された企画──いったん死刑を宣告された後、フランス領ギアナの囚人流刑地に送られたデュドネに言及している──は棚上げにされ、ヴィゴと製作者ジャック=ルイ・ヌネーズは前者にとって初の長編映画となる作品にふさわしい別の企画を探し始める。
その後ヌネーズは、ほぼ無名の物書きジャン・ギネが執筆した一本の未映画化オリジナル脚本を、ヴィゴのもとに郵送した。『アタラント号』と題されたその脚本は、どちらかと言えば月並みなストーリーを語ったものであった。ヴィゴ自身、ギネの脚本を気に入っていなかったとされるが、ほかに選択肢のない彼はこれに取り組まざるを得なかった。そして、登場人物の造形や設定など、さまざまな変更を加えつつ脚本を書き直した(たとえば、劇中ジュリエットを誘惑する行商人は、当初の脚本では若い船乗りということになっていた)。リライトに協力したのは、『新学期・操行ゼロ』の助監督を務めたアルベール・リエラ(本作の助監督も務めた)である。さらにヌネは、作家のブレーズ・サンドラールに頼んでヴィゴが書いたダイアローグに磨きをかけてもらうことにしたが、サンドラールはまったく文句をつけなかったので、手直しはなかったとのこと。助監督のピエール・メルルは船に詳しいジョルジュ・シムノンに運河や閘門や船乗りたちの村落についての情報を提供してもらった。また、ヴィゴは父アルメレイダの旧友フランシス・ジュールダンに美術を依頼した。
ジャン・ダステ(ジャン役)、ルイ・ルフェーヴル(ジュールおやじの助手役)、ボリス・カウフマンとルイ・ベルジェ(撮影)、モーリス・ジョベール(音楽)ほか、キャストおよびクルーには前作『新学期・操行ゼロ』に関わった者が多数起用されている。ヌネーズは配給契約を結んだゴーモンから100万フラン近い製作費を引き出し(この額は『新学期・操行ゼロ』のおよそ五倍)、そのおかげで名の知られた俳優を起用することができた。ポーランド生まれで無声映画期にドイツで人気女優となったディタ・パルロと、同時期にジャン・ルノワール作品に連続的に出演していたヴェテラン俳優ミシェル・シモンである。シモンの友人の一人は、彼が駆け出しの監督の作品に出ると知って驚いたというが、それに対してこの俳優は「ほかならぬヴィゴの映画だから」と(『新学期・操行ゼロ』で検閲を挑発した若手監督への共感を表明しつつ)応じたとのことだ。
撮影開始は1933年夏に予定されていたが、ヴィゴが『新学期・操行ゼロ』の上映でベルギーへ赴いたりしたため、同年11月の二週目からの開始となった。撮影は、ほぼ順撮りでおこなわれている。であるから、最初に撮影されたのは、冒頭の結婚式の場面(ジャンとジュリエットが式を終えて船に乗り込み出航する)である。撮影地は、イヴリーヌ県モールクール。新郎付き添い役を演じたのは作家のルネ・ブレク、陽気なびっこの招待客を演じたのは画家のウジェーヌ・ポール。その他のエキストラもみなヴィゴの友人たちだった。
ヴィゴは書き直した脚本にほぼ忠実に本作を撮ったというが、撮影時に大小の変更は加えた(そのため、完成作はますますギネの脚本からかけ離れたものとなった)。たとえば、脚本上では艀船で一匹の犬が飼育されていることになっていたのを、10匹ほどの野良猫(動物愛護協会の婦人から提供してもらったもの)に変えたりしたのだった。父アルメレイダが猫好きだったため、幼い頃は家じゅう野良猫だらけだった思い出を再現しようとしたものらしい。

また、行商人の役が脚本上で充分に練られていないと考えていたヴィゴは、現場で即興的にこの役柄に肉づけをしていった。劇中この行商人がうたう歌は、ゴーモンの要求でヴィゴがしぶしぶ導入したオリジナルソング(ジョベール作曲、シャルル・ゴールドブラット作詞)だった(ただし、ゴーモンが期待した類のロマンティックな楽曲の裏をかいてからかうような歌だ)。俳優たちを演出する際、ヴィゴはまず自分でその場面を演じてみせ、満足のいく演技を得られるまで撮り直しを要求したという。
前述の通り、冬に入ってから撮影が始められたため、天候不順のせいでスケジュールは遅延気味となり、おまけにこの悪天候と寒さはもともと結核を病んでいたヴィゴの身体も蝕んでいった。彼がロケーション撮影を重視していたことも、状況を悪化させる一因となったようである。運河沿いに立ち並ぶ家々や艀船の灯りを撮りたいがために、河に流氷が浮かんでいるような低温下で夜間撮影を繰り返したというのだ。
1934年1月半ばになっても撮影は終わらず、製作費も超過していた。ゴーモンはカネをかけずに早く撮り終えろとヴィゴを急かし、結果ジュリエットがパリの街を歩くくだりではゲリラ撮影がおこなわれた(このとき彼女は列をなす失業者たちの脇を歩いて行くが、彼らは「本物」である)。夜中にオステルリッツ駅でジュリエットが財布を奪われる場面は、ゴーモンからの追加の製作費が得られなかったため、ヴィゴの友人たち(出番のなかったダステを含む)の他、編集担当のルイ・シャヴァンスがかき集めた人々が無料でエキストラとして出演している。そのなかには、ジャックとピエールのプレヴェール兄弟らアジプロ演劇集団「10月グループ」のメンバーも含まれていた。このとき兄弟は旗振り役を買って出て周囲を盛り上げ、勤務中の警官や通行人も巻き込んで朝まで撮影が続けられた。ちなみに泥棒を演じたのはゴールドブラットである。
およそ四ヶ月かかった撮影が終わった1934年2月上旬より、ヴィゴは健康回復を試みるが、容態は改善せず、同年10月5日に29歳の若さで亡くなるまでの時間をベッドの中で過ごすことになった。ダステによれば、そんな状態にあっても彼は陽気さを失わなかったとのことである。
(2017年12月22日発売 ブルーレイ封入ブックレットより転載)
©1934 Gaumont