黄金の馬車|作品解説

野崎歓(フランス文学者)

黄金の馬車 | 1952

 『ジャン・ルノワール自伝』によれば、ジャンが初めて映画を観たのは2歳のとき、百貨店の無料映画だった。しかし上映が始まるやいなや幼児は「キーッと」悲鳴を上げ、乳母のガブリエルは彼を連れ出さざるを得なかった。映画との出会いが失敗に終わったのに対し、演劇はすぐさまジャンの心をつかんだ。ガブリエルに連れられて5歳のときに観た人形芝居は彼を夢中にさせた。「最も楽しい時、それは幕が上る前の一時(ひととき)だった。舞台裏から聞こえてくるアコーディオンの()に合せて、緞帳(どんちょう)(かす)かにゆれているようにみえる。と、(…)幕開(まくあ)きを告げる杖の音が三回響くのだ。ガブリエルの言うところによれば、私の興奮の度合ときたら大変なものだったので、開幕を迎えて、ズボンの中で思わずオシッコを洩らしてしまうことがよくあったとか」(『ジャン・ルノワール自伝』西本晃二訳)。

 映画監督になってからも、ルノワールのうちなる演劇への想いはいささかも変わらなかった。『女優ナナ』をはじめとして、彼の作品にとって演劇は欠かせない要素であり続けた。なかでも『黄金の馬車』は、演劇への愛が最も愉快に、そして美しく結晶した傑作である。

 原作はフランス19世紀の作家プロスペル・メリメの戯曲『サン=サクルマンの馬車』である。その大元には、スペイン王国の植民地だったペルーの副王(=総督)と、混血の女優ペラコラの身分違いの恋愛という18世紀の史実があった。またペラコラは自らの豪華な馬車を教会に寄進したことでも知られる。

 この女優伝説を映画化するにあたり、ルノワールはメリメに「背を向け」た。それはむしろメリメに「敬意を捧げ」る気持ちの表れだったという(『ジャン・ルノワール エッセイ集成』拙訳)。戯曲の忠実な映画化を心がけてかえって裏切りの罪を犯すよりも、いっそ好き勝手にやらせてもらうほうがいいという判断だったのである。その結果、ルノワールの作品にはメリメの原作とは何の関係もない一要素が盛り込まれることとなった。「イタリア」である。

 『黄金の馬車』のためにローマのチネチッタに乗り込んだルノワールを待っていたのは、イタリア人のスタッフ、そして主演に決定していたアンナ・マニャーニである。ルノワールは親友ロッセリーニの『無防備都市』が大好きだった。その傑作で忘れえぬ名演を見せたマニャーニを、彼は「イタリアの精髄」と称えている(『エッセイ集成』)。マニャーニを輝かせるための映画という考えが、最初から確固としてあったに違いない。しかもルノワールは、ロッセリーニに対しても敬意ゆえに背を向けた。ネオ・レアリズモ流の現実描写を捨て、徹頭徹尾つくり物のお芝居の世界を選択したのである。そのとき、にわかに浮上してきたのが西洋近代演劇の原点、源流をなすコメディア・デラルテの伝統だった。

 コメディア・デラルテとはもともと、旅回り一座による仮面劇であり、お決まりの役柄とシチュエーションにもとづいて、誇張に満ちたギャグが繰り広げられる。陽気なイタリア民衆の心に根ざす笑劇にして、パントマイム、アクロバットといった身体芸の要素もたっぷりと含まれている。鮮やかな色使いの衣装は、ジャンの父オーギュストをはじめ、印象派の画家たちやピカソにとって格好の画題となったものであり、『河』でカラー映像の力を認識したジャンの創作意欲をかき立てずにはいなかった。子役たちにさかんにトンボを切らせているのももちろん、コメディア・デラルテ流だ。

 英語および仏語バージョンで製作されていながら舞台上では堂々、イタリア語を喋らせている。そこに華やかなヴィヴァルディの『四季』が加わって──ヴィヴァルディはこの映画の「共同監督」だと言われるほどである──作品のトーンは決定づけられた。“郷に入っては郷に従え”をモットーとするかのように、越境のシネアスト・ルノワールはこのたびもまた、辿り着いた土地の人間と文化に密着する映画作りによってこそ、本領を発揮したのである。

 幼年時代のジャンの興奮をよみがえらせるかのような“幕開け”に始まって、その幕が下りるところで終わるのだから、『黄金の馬車』全編が、一つの演劇をまるごと映し出す趣向になっていることは間違いない。冒頭の背景はその後も重要な場所となる、馬車の出入りする宮殿の玄関を示している。ところが続くショットはただちに宮殿内部へと切り替わり、劇場中継というお約束はあっさりと打ち捨てられる。青空に白い雲の浮かぶ場面まで登場するのだから、カメラが劇場の外にさまよい出ていることは明らかだ。

 しかしこの映画の核心に、限定された空間内でドラマを躍動させるという演劇的な精神が脈打っているのも確かなのである。舞台と舞台裏、あるいは観客席との応酬で引っ張っていくくだりがよく示すように、ルノワールは限られた空間をさらに分割しながら、そのあいだに愉快な行き来を生み出す。そうしたやり方は、ハリウッド亡命以前の『ゲームの規則』ですでにひとつの頂点に達していた。ここではそれがさらに余裕しゃくしゃくの演出ぶりで、マニャーニ演じるカミーラと総督の恋愛が一国を揺るがす事態になっていくさまが、コミカルかつサスペンスたっぷりに描き出されていく。

 黄金の馬車を女優風情にプレゼントしようという総督の色ぼけぶりに怒った貴族たちが、総督相手に最後通牒を突きつけるシーンでは、対決の舞台となる会議の間をはさんで、控えの間にカミーラ、さらに別室には総督の元愛人の貴婦人が待機するという入り組んだ様相を呈する。総督からしてみれば、貴族たちの主張を受け止めつつ、同時にカミーラ、さらには元愛人をもなだめすかさなければならない。この「一対三」の構図こそは、お定まりの三角関係の図式からはみ出していくルノワール得意の「四角関係」のパターンにほかならない。しかも総督が部屋から部屋へ、ドアを開けたてしながら事態収拾に追われる滑稽な一幕は、最後はカミーラを取るか、おのが地位を守るかの二択となり、一転して深刻さを増す。これまたまさにルノワールならではの、「陽気な悲劇」の味わいなのである。

 総督はカミーラのために地位を放り出すというあっぱれな選択を取る。すると今度は、カミーラをめぐる「四角関係」がにぎにぎしく繰り広げられることになる。闘牛士ラモン、騎士フェリペと総督のそれぞれがカミーラに求愛し、カミーラはそれぞれのうちに「本物の男」を見出したような気持ちになって懊悩する。そこから司教の登場によってすべてに決着がつけられるまでの一瀉千里の展開は、何度見直してもみごとというほかはない。ルノワールの監督術が到達した最高の地点(のひとつ)がここにある。

 いささか苦みのある結末が素晴らしいが、やや意外の感を抱く向きもあるかもしれない。それまでは、総督がかつらを外すのを見て大笑いするようなカミーラの豪放な陽気さが際立っていた。しかしここに至り、女優は現世での幸せを諦め、失われた幸福の幻影を切なく惜しむかのようである。結局、女優にとって残されているのは演劇だけであり、現実は夢にすぎない。座長に「寂しいか?」と聞かれて「少しだけ」と答える最後のカミーラのまなざしに、万感の思いが込められていて胸を打つ。しかし同時に、座長が「イタリア風新作芝居を御覧に入れましょう」と客席に向けて予告していることにも注意が必要だろう。劇は途切れずに続き、すべてはステージ上のことでしかなく、そしてステージにはすべてがある。それが『黄金の馬車』の結論なのだ。いっさいを呑み込んでいきいきと照り輝く演劇の理想郷をルノワールは創り出したのである。

© MINERVA PICTURES GROUP

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